スローフード的考察2
2005 / 12 / 07 ( Wed ) 11月は頑張って更新していたなぁ〜と思っていたのもつかの間、忙しさにかまけていたらあっという間に12月も7日・・・。
師も走る月で、私もバタバタと走っていました。 そんな中、しかも、集いやらパーティーやら、アポやら約束やらが目白押しだった日に、携帯電話の電池が切れた・・・。 この出来事から私のスローフード的考察が始まったのであります。 丁度、先週はイタリアからスローフード協会のジャコモ・モヨーリ氏が来日し、(私は、東京の小さなスローフードの一派である『スローフードフィロソフィア東京』というグループの副代表なんていう名前的には仰々しいこともボランティアでやっております)友人でもあるジャコモを成田空港に迎えに行ったり(アリタリア航空約3時間延着のため、本人には残念ながら会えなかったけれど・・・)、スローフード日本の最初の公式イベントを覗きに行ったり(お手伝い全くできませんでしたことを関係者の方にはこちらからお詫び申し上げます!)、ご飯を食べながらゆっくり話したりという機会にも恵まれたということで、改めて 『スローフードってなんじゃろ?』 と考えてみました。(ので、今日は久しぶりの記事ということもあってマジメな記事です) 『ひょっとしたら人間って機械に頼りすぎていて退化してないか?』 ○携帯電話が急に使えなくなっただけで、まともに待ち合わせすらできない。(→大体の時間と場所だけを決めて、後は「現地でコンタクト取り会いましょう」というぼんやりとした約束をしていたため) ○電話番号を覚えていないし、手帳にも書いていない。 ○それに不安で待ってられない。 逆に言えば、携帯電話のおかげで、ギリギリの余裕のない約束もできるし、町で公衆電話を探したり、家や事務所に連絡を入れて、留守中に連絡が入っていないかを確認したりしないでも済むわけで、寝る時間を除けば全ての時間を無駄なく有効に使うことが可能になっている。 炊飯器があるから、お米をといでスイッチを入れれば、自動的にご飯が炊き上がる。(今は無洗米もあるけれど・・・) 全自動洗濯機があるから、汚れた物を放り込んでおけば、自動的にきれいになっている。 自動の湯沸かし器があるから、蛇口をひねれば設定してある適温のお湯が自動的に出てくる・・・。 挙げれば数限りないけれど、こんな便利な生活はいつのまにか『当たり前』になってしまっているよな〜。 これらが突然なくなったら、けっこう対応できない・・。 前述のジャコモが、「自分が小さい時は髪の毛を洗うのは大変だったよ〜」なんて説明してくれたので、「年だな〜。古い人間だよな〜」なんて笑い話にして茶化していたけれど、『便利=当たり前』になってしまうと、それがない頃、代わりにどういう作業工程をした暁に手に入れられる状況であるのか?ということすら忘れてしまう。 これが怖いことなんだろうな。 自動湯沸かし器がなかった時代、髪の毛を洗うのは一苦労だった。 火をおこす→薪をくべる→水をためる→沸かす→好みの温度に調節する→用意した量のお湯で足りるように遠慮しながらお湯を使う。。 こんなことやってたら朝シャンなんて絶対できないよな。おまけにドライヤーも吸水性が優れたタオルもないし・・。 料理だってそう。 冷凍食品はないし、電子レンジはないし、全部一から自分で作った。 聞いた話だけれど、キッチンが汚れるから魚焼きコンロは使わない。洗い物はシンクでやらないで食洗器。もっぱら使うのは電子レンジ一本。という家庭って結構多いらしい。 電子レンジがまだ家にない頃の記憶のある世代は良いけれど、生まれた頃には既に電子レンジがあった世代には、これが『当たり前』の既成事実になっている。 スローフードの哲学は、『ゆっくり食べる』ということじゃなくって、自分が食べる料理はもちろん、色々な便利な物や生活が『どうやってできたのか?どうなって成り立っているのか?背景にはどういう人のどういう知恵や努力があってのことなのか?』っていうことを改めて認識することだって思う。 イタリアですらも、スティック状のフライの形で魚は泳いでいると思っている子供が多数いることが問題になっているみたい。 まずは、『当たり前のことって存在しない』ってことを頭の片隅ででも意識することが第一歩なんだろうな〜とマジメに考えてみました。 そこには、誰かの知恵や努力や犠牲それに資源が使われてるって・・・。 車や電車や飛行機のお陰で昔とは考えられないくらい早く遠くに移動することができるけど、それだと、水戸黄門の全国行脚もあっという間に終わっちゃう2時間ドラマになっちゃうものね。 忙しい師走の最初の記事、自分への戒めも含めて締めくくります。 「ゆっくりやりましょう!」 |
スローフード的考察1
2005 / 06 / 23 ( Thu ) 昨夜、我が家で面白い事件がおきました。
母が、夜の9時頃、「もうそろそろいいかなぁ」と言いつつ家を出て行き、数十分後、片手に茎の伸びた泥のついた『たまねぎ』を手にして帰ってきたのです。 恥ずかしながら、野菜泥棒の娘となってしまった私ですが、(ごめんなさい!実はうちの母は手癖が悪く(!?)日課にしている散歩の最中に、良い物を見つけると、黙って見ていることができず、時々、頂いてきてしまうのです。今まで持ち帰って来たのは、ご近所の家の庭に生えているユズの木の実、きれいな色をしたブルーベリーのような実、そして今回の玉ねぎ。。。) その目的というのは、食べるためではなくって絵を描くため。 私の母は趣味で絵を描くのですが、(まあ、絵を描くといっても、色鉛筆で絵はがきを書く程度)それは、近くの川の風景だったり、散歩の戦利品だったり、きれいだなと思った物を絵に描くのだとか。 散歩の途中で見つけてきた野菜や果物は、自然できれいだったから惹かれてしまったとの答えに、ふと考えてしまいました。 ちょうど、同じ日に聞いた、光ダイオードの技術を使って野菜を栽培するという話を思い出したのです。この農業技術を使うと、泥や虫や農薬がついていない形の揃った『きれい』な野菜を効率よく作ることができるようになると・・・。 確かに、こうすれば自給率や効率は上がるけど・・・なんだか、野菜までスイッチでできるようになるのかと考えると、ちょっと怖くなりました。 私と一緒に仕事をしている「イタリアおやじ」は、ある時、「俺は家以外ではサラダは食べないんだ〜!家の外で作られた野菜は信用してないから」と自慢のように言っていたことを思い出しました。 彼の家は、ペルージャ郊外にあり、広い自宅の庭で、ブドウや、野菜を栽培しています。それらの管理は同居している奥さんのご両親の仕事で(お二人とも80代半ば)、ブドウで自家製ワインを作ったり、食べごろの野菜を毎日摘んでサラダにしたり、また、家畜として鶏、鳩、兎を飼っていて、日曜日の食卓にローストして供されます。(ちなみに、それらの家畜を締めるのは、おじいちゃんおばあちゃんの仕事) 自分の家でしかサラダを食べないイタリアおやじ。スーパーの店頭に並んでいる野菜は描く気にならないうちの母。 手放しに無農薬の野菜じゃなきゃダメだとは思わないけれど、やっぱり、自然の恵みと作った人の愛情が感じられる物が食べたいな〜。としみじみ思ってしまいました。 でも、ご近所の庭に生えている物を頂く時には、ちゃんと許可を取ってからにして欲しいな ![]() |

